沈思黙考

日常の疑問から巡る思い

「かしこ幼い」人達の増加に感じる一抹の不安感

前回の東京都知事選挙後の石丸さんインタビューに関する記事の中で「かしこ幼い」人達の増加について言及しました。

そもそも、「かしこ幼い」人とはどのような人か。一般よりも高い学歴や経歴を持ち、履歴書を見ると輝かしいものをお持ちの方です。実際に会ってみると、その学歴や経歴にふさわしい自信や行動力を持っています。そこまでは素晴らしいのですが、実際にチームで業務に当たるとすぐに「このやり方は効率的でない」とか「こうすればもっと良くなる」等と言い始めます。それに対して過去の経緯等を踏まえながら対応していこうという風な発言をすると「既存のやり方に固執している」「改善意欲がない」「やる気がない」等とレッテルを貼って対立、どちらの方法を採用するかで勝ち負けのようなやり取りを始めるのです。

 

この傾向、特に若年のいわゆる「新進気鋭」と言われるような人に多いと感じています。テレビなどで「既存の考え方をブッタ斬る」等とテロップを出されて喋ってるコメンテーター等で思い当たる人が読者の方にもいるのではないでしょうか?

 

ベースに「賢さ」を持っているので直接その人と普段やり取りしない、会社で言えば役員クラスの人等とやり取りするときの礼儀作法はわきまえています。すると役員からは「あいつは探求熱心で周りとの軋轢も厭わず正しいことを主張し、熱心に取り組んでいる」という風に見えるので、大抵出世も比較的早くなります。

出世当初は、自身を引き上げてくれた役員がいるのでまだ自重する面もあります(ここでもベースにある賢さが活きてきます)。しかし問題が表面化するのはそうした役員の重石が外れ、いよいよ自分が名実ともに実質的なトップになったときです。

これまでの業務ややり方を「元々非効率だと思っていた」等と言ったり、もっともらしいコンサルを連れてきて非効率だと指摘させたりして根底から覆そうとしてきます。その内容は確かにある一面(得てしてそれは、そのかしこ幼い人から見た一面であることが多い)から見れば非効率だったりするわけですが、俯瞰して組織全体の視点から見るとどこかが非効率な部分を担わないといけなかったり(その部分を改善しても、別の部分で非効率が新たに生まれるだけ。近頃は派遣社員に押し付けることで正社員の業務は効率化するという方法も確立しつつあります)、改善にかかる人的コストと得られる効果が見合わなかったり(定量的に判断できる金額的なコストは同等もしくは若干のプラス位で改善できるように見えます)するわけです。

かしこ幼い人自身はもう偉くなっているので「あとはやっておけ」で済むわけですが、実際にその指示を受けた社員は大わらわとなります。そうやって、無駄な時間やコストが垂れ流されて現場が疲弊していくのです。

 

...ここまで書いてくると失われた30年って、こういうことだったのか?と思ったりします。SNS等で誰もが情報発信できるようになった結果、かしこ幼い人達の増加を認知することができましたが、実はこれまで長い年月をかけて増えてきた人達が今まさに社会の根幹を動かしているのかもしれませんね。

何だか書いてて悲しくなってきたので今回はここまでとします。次回はなるべく楽しい記事を書きたいな。