今日は久々に労働系の記事を書きたいと思います。
私が新卒入社した会社は、それなりに名の通った日系企業でした。同期が600人近くいるような会社で、一応経営戦略的な企画立案を行う組織の近縁に配属されていました。そうした環境下で良く聞こえていたのが「若手に修羅場を経験させないといけない」「修羅場経験が一回り大きく成長させてくれる」といったフレーズでした。
当時はそんなもんかと思って聞いていましたが、十数年経った今、やっと当時の色々も含めて整理が出来そうなので考えをまとめておきたいと思います。
「修羅場」ってなに?
そもそも「修羅場」って何なんでしょう?ネット検索すると「インド神話、仏教関係の伝承などで阿修羅と帝釈天の争いが行われたとされる場所。転じて、戦場など殺戮や流血が起きている場所をさす」...なかなか物騒ですね。
働き方改革が叫ばれ、労働者の流動性が高まるなか、こんな物騒な言われようをする環境に放り込まれそうって若手が聞いたら、転職していくのも何となくわかる気がしませんか?
「多忙を極める現場=修羅場」か?
直近で比較的イメージしやすい修羅場の例を挙げて考えてみます。
デジタル庁が旗振りして全国の自治体で使っている住民基本台帳などのシステムを標準化しようという計画が始動しています。標準化するためには、「こういう形に画面表示や出力が出来るようにしてください」という標準準拠形式が示されることがスタート(当たり前ですよね)ですが、どうやらデジタル庁は標準準拠形式を示すつもりはないようです。
デジタル庁としては、菅さんが総理時代に肝いりでぶち挙げた政策で止めるわけにはいかないものの、関係者に話を聞くとそれぞれに理由をもって色々なカスタマイズをしている。標準準拠形式を示すとどこかでこれまでの事務の遂行に支障を来す部分を生じさせることになり、それを自治体が打開するためには法令等の改正といった国にも影響するハードルがある(自治体側が困るだけなら何とかしとけ!といって自治体に丸投げ出来ちゃうのが国ですが、そこまで簡単な話じゃないというのがヒアリングした感触なんだろうと思います)。
それなら、デジタル庁がぐずぐずと標準準拠形式を公開せずに先延ばししている間に、なんとなく標準パターンみたいなのがベンダーと自治体間の協議で見えてきて、それがいくつかのパターンに収斂されて行くといいなと思っているような節が感じられます。
そうなると困るのがベンダーです。最終的な成果物の形が示されていないのに、完成期限は示されている。開発着手が遅れれば遅れるほど、完成期限までの期間が短くなっていくわけですから、開発工程は多忙を極めることになります。「多忙を極める現場=修羅場」という理解であれば、標準化プロジェクトにおけるベンダーの開発現場はまさしく「修羅場」となることが容易に想像できます。
「チャレンジする/させる」ことと「無謀な業務を与える」ことを混同していないか?
もし、このプロジェクトに「この修羅場経験が必ず君を一回り大きく成長させてくれるから、参画してくれ」と上司から若手が声をかけられたら、「あぁ上司は自分の成長を考えてくれているんだ!」...となるでしょうか?最近の若手は「自分を成長させてくれる職場への就職を希望している」なんていうデータもあるようですが、このプロジェクトに参画できる職場=自分を成長させてくれる職場となるでしょうか?個人的には「使い勝手のいい傭兵の逐次投入」、「修羅場経験云々は、投入を命じる上司視点の言い訳にすぎない」と思います。
こうしてプロジェクトに投入された若手人材が疲弊して療養休暇に入ったり、最悪の場合退職したりしたとき、その会社や上司は一生面倒見てくれるんでしょうか?そんなわけもなく、有り体に言えば「使い捨て」で、また次の修羅場投入人材の選定に入る...ということになるだけです。
「修羅場経験者」が少ない理由
上記の例で、例えばプロジェクトマネージャーとして参画し、開発が遅れている部分に増員して全体のスケジュール確保に向けて調整したり、開発遅れの原因を分析して、仕様が曖昧になっている部分について手戻りがないよう発注者と調整して仕様確定したり...といった経験は、もしかしたらそのプロジェクトマネージャーの経験は高まるかもしれません。しかし、末端で作業する人はどうでしょう?まさしく戦場と化しているような現場では先輩から後輩へのOJTなど成立するはずもなく、膨大な業務量に忙殺されて、より良いアイデアを他のメンバーとシェアして可能性を検討する...等という余裕は皆無だと思います。そういう職場に振り向けられるのは大抵若手です。「自分を成長させてくれる職場で働きたい」と思う若手と、実際の業務環境には解離があると言わざるを得ません。
戦場と化した現場では、当然多くの人員が必要になります。ただし、冒頭から述べているような、自分の限界を突破することで能力向上に寄与するような「修羅場経験」が出来ているのは、いわゆるプロジェクトマネージャークラスのほんの一握りに過ぎないということです。その他多くの傭兵として投入された人員には、嵐のような体感と疲弊感が残されるのみではないでしょうか。
修羅場経験は計画的に与えられるものなのか?
上記の例のような修羅場は、発注者が明確なゴールを定義しないことに端を発した偶発的なものです。
理想的な修羅場とは、「本人の希望や能力に配慮した上で提供される、よりチャレンジングな環境」と考えます。例えば、海外赴任を目指して業務時間外に外国語の習得にチャレンジしている若手がいるとします。そうした若手の希望(海外赴任したい)や、能力(語学習得中)を把握した上で、実際に海外赴任を命じることは、理想的な修羅場経験と言って良いと思います。
ここまで考えたビジネスリーダーやビジネスリーダー向けのセミナー、ビジネス書では「まずは労働者との1on1ミーティング等、本人の希望と能力を適切に把握する施策が必要」といった内容が結論として示されます。しかし、ここで1つデータを示したいと思います。パーソル総合研究所が2022年に示した「グローバル就業実態・成長意識調査」によれば、日本は勤務先以外での自己研鑽について「とくに何も行っていない」が5割を超えており(52.6%)、その割合は次点のオーストラリア(28.6%)と比べても突出して高い結果となっています。
となると、例え1on1ミーティング等で本人の希望や能力を把握しようとしても、半数以上は「自己研鑽に裏付けされた希望」ではなく「漠然とした(あるいは◯◯は楽そうだからといった消極的な)願望」を捉えることにしかならないということです。
意欲の有る社員を抽出し、計画的に理想的な修羅場経験を提供するには準備コストがかかりすぎる気がします。
そうだとすれば「修羅場経験」等という言葉遊びに惑わされずに、しっかりとそれぞれの配属のなかでOJTや適切な研修を行っていくしかないのではと思います。魔法のような人材育成法は無いということですね。