沈思黙考

日常の疑問から巡る思い

言葉遣いや表現の難しさ

社会学者の成田悠輔氏を起用した広告が、当人の過去の発言を理由に取り下げられました。

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https://news.yahoo.co.jp/articles/d8aee270e23ff2d951a3ab59d4e37328ffed5ca1

私は成田氏の発言の詳細も、前後の文脈も知りませんが、今回の事例から言葉を扱うことについて本当に気を付けないといけないなと感じました。

「集団自決すればいい」という表現は、その部分だけを見ればかなり過激な表現です。前後でいかに説明を尽くしたとしても、そこだけ切り取られてしまえばそれまでです。「マスコミの切り取り方に悪意がある」と言う方もいるかもしれませんが、様々な媒体が一定の知名度を持つ成田氏の発言を情報発信する際、それぞれの媒体の都合で発言を切り取ることは容易に想定出来、過激な表現の部分だけを切り取ってセンセーショナルに報じることも十分想定可能だったと思います。

成田氏ほどの頭脳があれば、言葉をチョイスする段階で、その言葉を避けるということができたのではないか?と思うと同時に、自分自身に対しても言葉の選択には細心の注意を払わねばと思うところです。

一方で、高齢社会への対応は喫緊の課題です。世間の関心を集めるために、成田氏はある程度の炎上は承知で(むしろ期待した面もあるかもしれません)、世論を巻き起こすきっかけとしての発言だったのかもしれないとも思えるのです。

そう考えたとしてもその試みは失敗に終わったと言って良いのではないかと思います。当初想定していたような高齢社会に対する実効性のある対策についての議論は進まず(ヤフコメなどでは高齢者が組織の中で現役世代の足を引っ張っているというような論評の書き込みも見られますが、世代間の考え方や認識のギャップについての現状不満に終始する程度の内容に留まっているように見受けられます)、発言に対する成田氏への批判だけが成田氏の傷として残る状況となりました。ネット上の傷は消すことができません。冒頭の発言も2021年にしたものですが、2024年になっても広告を取り下げさせるだけのマイナスの影響力を保持し続けています。

社会学者として、高齢社会に対する社会の対応の遅れへの危機意識は人一倍強いのでしょう。社会のあちこちに垣間見える不条理に、若者世代を代表して一石を投じるような気持ちだったのかもしれません。一方で社会は高齢者や若者、障がいを持つ人や外国人も含めた多様な人の集合であって、考え方も多様であることから急激な変化は難しいかもしれないけれど、だからこそ社会はしなやかに存在し続けられるのではないか。様々な問題は内包しているかもしれないけれど、少しずつ着実に、より良い方向に社会全体として進んでいるんだと思いたい。私自身は願望も込めてそんな風に思っています。