沈思黙考

日常の疑問から巡る思い

性悪説の前提にたった政治が必要だ

自民党の裏金問題はなかなか全容解明が進みません。

それもそのはず政治倫理審査会には強制的な捜査権もなければ、政治倫理審査会での発言について偽証罪に問うこともできません。

そもそも今政治倫理審査会で取り上げられているのはパーティー券の売り上げをいつから議員本人に還流するようになったのかといった話なので、別にそれ自体は法律的に違法だの何だのという話ではなさそうです。

単純に還流して議員本人に入ったお金を収支報告してなかったら脱税じゃないの?脱税したら追徴課税されるんじゃないの?それが実行されないのは何でなの?権力者の罪は問わないってなったらもはや法治国家って言えないじゃん?という、一般市民の素朴な疑問に答える議員も、そのことに言及・検証する気概のあるマスメディアも無さそうです。

 

正直そんな政治にはもはやなんの期待もしていません。余計なことをしないでくれればそれでいい。とはいえつい最近もインボイスで国民に余計な手間だけとらせましたけど...

邪魔するな。それが多くのサイレントマジョリティの思いでは無いでしょうか。それが政治への無関心や低い投票率に現れているんだと思います。

自分さえ良ければいい、そんな下心が透けて見える人達を見ていると怒りを通り越して悲しくなってきます。少子高齢化による未曾有の人口減、その足音は、トラックドライバーなどをはじめとする労働力不足や地域交通の崩壊など、確実に近づいてきています。そういう風にダイナミックに国の根幹が変わっていくことに対して中長期的な視点からこの国をどうしていくか、本気で考えて議論してもらうための代表者なのに、当人たちは目の前の金集めに夢中なようです。

 

彼らが変わることを期待するのは無理でしょう。今の選挙制度では(制度が変わったとしてもなのかも知れませんが)、そうした大局観を持った人材が政治の世界にどんどん流入してくるという可能性も限りなく低いでしょう(はじめは大志を持っていたであろう人もいつの間にか金集めに奔走するのが政治の世界のようですから)。となれば、やはり小さな政府を志向して、国防や災害対応など国全体で担わないと割にあわないものだけやっておいてもらう。それ以外は一人一人が自律して担う。そんな諦めにも近い覚悟が一般市民に求められているような気がしています。

岸田総理は自分自身の処分も含めて検討といって、検討使の本領を遺憾なく発揮していますが、新しいことをあれこれ検討するのではなくて、法に則った脱税分の納税と追徴課税で十分です。そして、今後同様の問題を起こさないためにパーティー券の売上や献金による収入をすべて記載する、曖昧な解釈が残るような条文を改正して法の穴を塞ぎ自らの襟を正すこと、それこそが政治の責任でやるべきことではないでしょうか。

一般市民の思いが政策に反映されない理由~選挙に行くことの大切さ~

サイレントマジョリティとノイジーマイノリティという言葉があります。

投票に行くことの大切さについて簡単な算数で考えてみたいと思います。

 

【前提条件】

立候補者①は有権者100人の村に住んでいます。構成員うち、10%に当たる10人(ノイジーマイノリティとします)は議会に興味を持ち、特定の政治的な要求(ここでは要求Aとします)を達成するために活動しており、選挙には100%参加して投票します。残りの90%に当たる90人(サイレントマジョリティとします)は特段議会に興味関心はなく、そのうちの10%に当たる9人は要求Aについて賛成です。

この村で選挙があり、立候補者①が当選確率を高めるためにはどのような政策を推進すると訴求していけば良いでしょう?ただし、この村の投票率は30%とします。

 

この村において政策Aを支持する人が19人いるので、政策Aの支持率は19%です。残りの81%(過半数の考え方でいけば圧倒的ですね)が、政策Aについて賛成ではない状況です。それでも立候補者①の戦略としては政策Aについて推進することを公約に選挙活動する方が当選可能性が高いということになります。なぜなら、政策Aについて推進することを表明することにより、ノイジーマイノリティの10人の票を確実に獲得することができるからです。

次にサイレントマジョリティについて、100人の村の投票率は30%なので30人が実際に投票します。そのうち10人はノイジーマイノリティ(前提条件で)なので、サイレントマジョリティで投票するのは20人です。20人のうち10%に当たる2人は政策Aについて賛成なので、2人の票を獲得することができます。つまり、支持率19%の政策Aを推進すると訴求することで、有効投票数30票のうち12票を獲得することができます。

ここで政策Aには反対で、支持率50%の政策Bを推進する候補者②を登場させます。先程と同様の選挙で考えると、ノイジーマイノリティの10票は候補者①に投票するので獲得できません。残りの20人のうち50%に当たる10票を獲得します。

候補者①が12票、候補者②が10票で候補者①が当選することになります。こうして、全体で見ると支持率が低い政策を推進する候補者が当選することになるのです。

 

これを防ぐためには「投票率を上げる」しかありません。先程の例で仮に投票率が倍の60%だった場合、候補者①は15票、候補者②は25票獲得することになり、候補者②が当選することになるのです。

より正確に民意を反映するために、どんなに政治に不満があっても投票に行くことが大切ですね。

政治の体たらくの理由が何となくわかった気がする

呆れてもはや記事にするのも止めようかなと思っていたのですが、一応あれこれ考えたので記事にします。自民党の青年局が主催した懇親会の不適切な企画(露出の多い女性ダンサーが躍り、口移しでチップを渡す)についてです。

記事はこちら↓

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240308/k10014383731000.html

 

この企画自体を事前に参加者がどこまで知っていたかは分かりません。分かりませんが何となく懇親会の余興と言う位置付けから考えると、個人的には幹事が仕組んだサプライズではないかと思っています。

青年局の会合自体は毎年とか、定期的に行われていたんだろうと思います。そして、幹事も毎回とか、何年に一回とかで任期がまわってきて担当するのでしょう。会合にどんなゲストスピーカーを呼んで、何を議題にするか、時流を読んだテーマを話せる人に登壇交渉をしたり、そういった会合全体の仕切り役みたいな人がいたのでしょう。

表向きはそういう役割と言うことになっていますが、実際のところは会合終わりの懇親会の場所設定や会費と料理のバランスがコスパがいいか、何より懇親会の余興が面白いか、そういったことの方がより重要なミッションとなっているわけです。

ここまで考えると、会社とかでもありませんか?若手社員が一生懸命場所とか企画とか考えてやるんだけど、年長者の社員が「今年の幹事はイマイチだったなー、去年の幹事はこんな面白いサプライズを用意していたのに」なんて言いながら二次会に繰り出していくような場面。余興の企画ネタは過去にあらかたやり尽くしていて、目新しいものはない。それでもインパクトを残すためには...幹事が一発屋の芸人の真似をしてなんとも言えない空気になる...あれです。

一般人の感覚では幹事自らが金をかけずに何とかしようとする(なんとかなってるかは別として)わけですが、あれをお金かけて豪華にやるとこうなるんだなって感じました。

問題が報じられてからも「今回の会合のテーマは多様性だったことから、様々仕事があることを知るために~」とかなんとか、ダンサーを呼んだ理由について何とかそれっぽくするために訳のわからないことを後付けで考えるからとんちんかんなことになっているわけです。「盛り上がると思ってしまった。すいませんでした。」とでも言えばまだ可愛げがあると言うものです。

辞任した青年局長も「現時点では触ったと言う認識ではないし、この認識は変わらないと思う」とか、これまた訳のわからない説明に終始しました。あれだけ過激な衣装を着て女性の方から体を密着させてきて、まわりはみんな仲間、下手すれば先に触っている人もいたでしょう。そうなれば触らないのはよっぽどの意志(こんなことで意志とかいう言葉を使わないといけないのも情けないですが...)がないと不可能だと思います。意志を持って触らなかったのであれば、触っていないことははっきり覚えているだろうし、記者からの質問に対してもっとはっきり触っていないと言えるんじゃないか?と思います。

ということは...という気もしますが、触った触らないはこの期に及んでこの問題の核心部分ではありません。

 

肝心なのは「こんな重要かつ簡単な問題についても、感覚がアップデートされていない」ということです。

今回の問題は男性が多数を占める会場で、露出の多い女性がサービス提供するというものです。昭和の時代なら社員旅行で行った旅館の大広間で、仲居さんから給仕を受け、勘違いした人が時折おいたして...といったようなものを過激化させたイメージです。ジェンダーとかいうフレーズが声高に叫ばれる前から、一般の感覚では「何となくそういうのって時代にそぐわないよね」として無くなってきたのではないかな?と思います。それを未だに企画として採用し、誰も異議を唱えない感覚。そういう感覚を持っている人がする政治だと思うと、最近の体たらくも妙に納得できてしまうのが本当に残念でなりません。

言葉遣いや表現の難しさ

社会学者の成田悠輔氏を起用した広告が、当人の過去の発言を理由に取り下げられました。

記事はこちら↓

https://news.yahoo.co.jp/articles/d8aee270e23ff2d951a3ab59d4e37328ffed5ca1

私は成田氏の発言の詳細も、前後の文脈も知りませんが、今回の事例から言葉を扱うことについて本当に気を付けないといけないなと感じました。

「集団自決すればいい」という表現は、その部分だけを見ればかなり過激な表現です。前後でいかに説明を尽くしたとしても、そこだけ切り取られてしまえばそれまでです。「マスコミの切り取り方に悪意がある」と言う方もいるかもしれませんが、様々な媒体が一定の知名度を持つ成田氏の発言を情報発信する際、それぞれの媒体の都合で発言を切り取ることは容易に想定出来、過激な表現の部分だけを切り取ってセンセーショナルに報じることも十分想定可能だったと思います。

成田氏ほどの頭脳があれば、言葉をチョイスする段階で、その言葉を避けるということができたのではないか?と思うと同時に、自分自身に対しても言葉の選択には細心の注意を払わねばと思うところです。

一方で、高齢社会への対応は喫緊の課題です。世間の関心を集めるために、成田氏はある程度の炎上は承知で(むしろ期待した面もあるかもしれません)、世論を巻き起こすきっかけとしての発言だったのかもしれないとも思えるのです。

そう考えたとしてもその試みは失敗に終わったと言って良いのではないかと思います。当初想定していたような高齢社会に対する実効性のある対策についての議論は進まず(ヤフコメなどでは高齢者が組織の中で現役世代の足を引っ張っているというような論評の書き込みも見られますが、世代間の考え方や認識のギャップについての現状不満に終始する程度の内容に留まっているように見受けられます)、発言に対する成田氏への批判だけが成田氏の傷として残る状況となりました。ネット上の傷は消すことができません。冒頭の発言も2021年にしたものですが、2024年になっても広告を取り下げさせるだけのマイナスの影響力を保持し続けています。

社会学者として、高齢社会に対する社会の対応の遅れへの危機意識は人一倍強いのでしょう。社会のあちこちに垣間見える不条理に、若者世代を代表して一石を投じるような気持ちだったのかもしれません。一方で社会は高齢者や若者、障がいを持つ人や外国人も含めた多様な人の集合であって、考え方も多様であることから急激な変化は難しいかもしれないけれど、だからこそ社会はしなやかに存在し続けられるのではないか。様々な問題は内包しているかもしれないけれど、少しずつ着実に、より良い方向に社会全体として進んでいるんだと思いたい。私自身は願望も込めてそんな風に思っています。

いじめ問題の解決が難しい理由

先日このブログで、パワハラ問題に対応するために人事部門ができることについて書きました。

記事はこちら↓

https://sioto310.hateblo.jp/entry/2024/02/21/121657

 

その中で、対応策として採用しやすい順に

パワハラ被害者を異動させる

パワハラ加害者を通常の人事異動のタイミングで他の異動と混ぜる形で異動させる

パワハラ加害者にパワハラ事実を伝えて処分(けん責、減給、停職)を行う

パワハラ加害者にパワハラ事実を伝えて解雇処分する

を挙げました。また、記事の中で学校で発生するいじめ問題はより対応が難しいとも言及しました。学校現場で起こるいじめの認知件数は、年々増加しています。今回はいじめ問題の難しさと対応策について考えてみたいと思います。


あらためていじめ問題の解決の難しさは、個人的には会社におけるハラスメント問題以上だと思っています。
ハラスメントの場合、ある程度の規模がある会社の場合は被害者を別の部署に異動させることで問題を回避することが、比較的容易に可能です(加害者の側には有効な対策を施していないので、第二の被害者が生まれる可能性は残されていますが)。
定期のタイミングにあわない異動になったとしても、もっともらしい理由をつけることは可能です(もちろんこの場合、ハラスメントが原因の異動であることは噂話としては広まることはほぼ確実ですが)。また、同様にもっともらしい理由をつけて加害者を異動させることも可能です。新規開拓の先頭に立ってもらいたいとかいって、一人親方として異動させるなんてことも出来ないわけではありません。

ところが学校内におけるいじめとなると一気に話が難しくなります。
まず、被害者の異動にあたるクラス替えは一年に一回4月が基本です。年度途中にクラス替えを経験したことがある人はそんなに多くないのではないでしょうか。加害者のクラス替えも同様に一年に一回しか基本的にチャンスがありません。
また、高校ならまだしも義務教育の小学校・中学校となると、基本的には住所に基づいて指定された学区の学校に通うことになります。他の小学校や中学校に引っ越しを伴わない形で転校する例は、まれと言えるでしょう。

ここまでで、本記事冒頭に記載したパワハラ問題への4つの対応策のうち①被害者の異動、②加害者の異動は難しいことがわかりました。そして義務教育の場合は当然④に該当するいじめ加害者を退学処分にする、ということも難しいことは容易に理解いただけると思います。
つまり、学校現場におけるいじめ対応は、実質的に③に該当するいじめ加害者にいじめ事実を伝えて処分(指導、成績表に反映、停学)しか取りえなくなります。これこそがいじめ問題がパワハラ対応より難しいと私が考える一番の理由です。
社会人の世界でも難しい対応なのに、学校の場合はいじめ問題・いじめ加害者と真正面から向き合わないと解決できないのです。それを下手すれば新卒の社会人一年目の先生でも行わなければならない可能性がある...これだけでも教職員の成り手が少ない理由が何となく感じられるような気がしませんか?
さらに厄介なことに最近のいじめはスマホによるSNS上でのいじめなど、目に見えにくい方法による場合が増えています。

私は、いじめについては先生や学校に任せきりにするのではなく、外部のより専門的な機関による支援や対応が不可欠だと思います。

アメリカではスクールポリス制度が導入されていたりもしますが、日本の場合は銃社会ではないので武力を殊更示す必要性は高くないことから、よりソフトな形で例えば定年退職した警察官と定年退職した教職員がタッグを組んでチームとなって学校運営をサポートするようなイメージです。それぞれのチームは学校を越えて広域に結び付いて情報交換や連携を行っていて、事例や対応の共有も行います。さらに市町村や都道府県単位でサイバー空間上でのいじめ等の問題行為をパトロールする部隊(各都道府県で現在もサイバーパトロールは実施していますが)とも連携し、そこからの情報提供を受けて学校現場での問題解決に着手します。

そして何より大切なのは、万が一いじめなどの介入案件が発生したとしても、それを現場の教職員の責任にしたり、教職員の昇進や評価に影響を与えないこと、逆に問題を解決すれば昇進や評価にプラスの影響を与えることを明確化することです。

現場で日々奮闘する教職員をチームで支え、教職員が本来の仕事である教育活動に費やす時間を増やせるように、文部科学省や子ども家庭庁(何を所管しているのか私はいまいちわかっていませんが...)が本気で考えるべき時が来ていると思います。このまま現場に負担を押し付けるだけだと本当に教職員の成り手がいなくなってしまうし、何より子どもたちが安心して、健やかに学び育つ環境の確保が難しくなってしまう。

教育現場の負担軽減は待ったなしの問題です。

政治の責任で行うべき災害への備えとは何か

3月11日で東日本大震災から13年となります。被害にあわれた方々に心よりお見舞い申し上げます。

 

日本は世界最大の地震国として、東日本大震災以降も2016年には熊本地震、2018年には北海道胆振東部地震、そして記憶に新しい2024年元日に発生した能登半島地震と数多くの地震に見舞われています。

被害にあわれた方の1日も早い生活再建は最優先に取り組まなければならない課題です。一方で被災した地域の復興については、限られた予算の中どこまで復興・再建するのか冷静な議論と判断が必要ではないでしょうか。

東日本大震災の被害を受けた東北8市町で、復興工事の完了が見通せないという記事が掲載されました。記事はこちら↓

news.yahoo.co.jp

 

未曽有の震災後に、土地全体のかさ上げや海が見えない高さにまで防波堤・防潮堤を整備するには莫大な予算がかかります。そこまでして整備しても、復興前のように人が戻ってくるわけではないというのが実際のところです。新たな産業が勃興するわけではないので、新たに移住する人が急増するとは考えにくく、もともとその土地に住んでいた人も復興工事が完了しないから戻らないのではなく、13年の時が流れる間に移り住んだ土地で生活の基盤を築き、もと居た場所に戻れない(戻る必要がない)状況になったという人も一定数いるのではないかと思われます。

多額の予算を投入しても人が戻らないのであれば、投資効果は限定的です。心情的には故郷が災害によって見る影もなくなってしまうこと、そしてその土地に帰ることができなくなることの喪失感は計り知れないものがあると思います(個人的にも、私の祖父母の家があった地域は典型的な限界集落で、もうすぐなくなってしまうだろうなと思って一抹の寂しさを感じており、一瞬にして故郷が奪われるという震災被害にあわれた方との次元は全く違いますが、ほんの少しだけ故郷がなくなることの実感を持っているつもりです)。ただ、限りある貴重な予算を限定的な効果しかあげられない事業(被災者にフォーカスした予算ではなく、例えば土地の復興関連の土木予算など)に計上し続けて良いのでしょうか?

 

今後発生するであろう震災等に備えて、平常時のうちに、災害が発生した時にその土地をどこまで復興するか判定しておく基準のようなものを整備する必要があるのではないでしょうか。例えば内閣府が実施している県民経済計算を発展させるような形で、都道府県・市町村単位でその土地が生み出す価値を算出し、全体の上位3割に該当する地域はかさ上げや防波堤整備といった大規模なハード面も含めた土地の復興を行い、同規模の災害が再度発生しても耐えられるレベルまで復興する。中位6割は、道路などの生活インフラ整備は行うものの、大規模なハード投資までは行わない。下位3割はその土地を離れて新たに生活拠点を整備する人々への支援に軸足を置き、土地の復興優先度は下げるといった考え方です。

これを実現しようとすると、下位にスコアリングされそうな地域からは「生まれ育った土地を見捨てるのか」「地方切り捨てだ」といった批判が出ることは容易に想像できるので、なかなか勇気のいることだとは思いますが、少子高齢化で国力が衰退していくことは確実な日本の現実を見つめ、数々の震災経験を経て、身の丈に合った復興ができるように、災害が発生する前に事前に備えておく。これも立派な災害への備えだし、政治の責任でやるべきことではないかと思います。

経営層と人事部門の役割とは

私はコンサルタント有識者が嫌いです。何故か?

答えを持っている風で何も持っていないからです。「答えは組織ごとに違うから、組織に属する人が自分自身で見つけないといけない。自分達はそのお手伝い、伴走をしているにすぎない」とか言い始める人もいますが、こうなってくると最悪です。そんな奴に払う金なんかねーわ!と思ってしまいます。

自分で到達するのが難しいゴールを目指しているから依頼しているんであって、先程の伴走の例でいうなら、リレーのようにゴールテープは依頼主に切らせるとしても、一定部分は依頼主の代わりに走ってもらわないと困るわけです。ただ横でついてくる伴走者に払う金はありません。

 

このままだと愚痴だけで終わってしまうので閑話休題

先日参加した人材育成関連のセミナーで、人材育成のためには上位者と担当者の対話が重要であるとの話を聞きました。では、対話とは具体的に何かというと、明確ではありません。

何のために働いているのか実感ができること、各人の強みや希望に応じた仕事ができるように対話を増やすことの二つが必要ということですが、まず、何のために働いているかは人それぞれ違います。やりがい、仕事を通じたスキルアップ、生活の糧を得るための手段、惰性...非常に個人的な、内発的なものなので、上位者との対話から労働の目的を見出だすことは不可能ですし、そんなことまで任せられたら上位者が大変です。

強みや希望に応じた仕事ができるようにというところも不確実です。全員を希望の部署に配属していたら組織は成り立たないし、下手に上位者が対話をして聞き出してしまうと、希望が叶わなかったときに「上位者に話したのに希望が通らなかった」とモチベーションの低下にも繋がりかねません。希望を直接聞くのは人事の仕事。業務の上位者は、普段の業務を通じて担当者の強みや隠れた可能性を見出だして、次の異動に反映するための意見を人事に適切に報告する。人事が聞いた希望と上位者からの報告を踏まえ、組織の人材成長ビジョンに照らして、組織の成長と担当者の能力向上に資する異動先を考え抜く、それこそ上位者と人事の仕事だと思います。

実際にはそもそも組織としての人材育成ビジョンが明確でないことが非常に多いです。ここでいう明確というのは人事内部に対してだけでなく、組織全体の中にビジョンが浸透しているかということを含みます。

ビジョンが明確であれば、組織に求められる人材像をイメージすることができます。そうすればメンバーの中には自発的に学習などの取り組みを始める人もいるでしょう。それも示せていないのに「自発的に学習する人材がいない」等とぼやいていないでしょうか?

また、人事部門は多様な業務を行っていて忙しすぎるので、一人一人のことをミクロに分析して考え抜くことができません。多忙を理由に将来の上位者に抜擢する人材の抽出が遅れたり、適性のない人材を抜擢すると、担当者の離職に繋がります。この離職は、適性のある人材が組織に埋没して抜擢が遅れることによる短期的な損失と、適性のない人材が抜擢され、その人材が率いる組織の中で段階的に起こる離職(静かな退職を含む)による長期的な損失の二つを意味しますのでかなりの痛手となります。

人事部門や経営層は、多忙な中でも組織の将来を見据えた行動・活動が常に求められているのです。