沈思黙考

日常の疑問から巡る思い

謎の理由で連立離脱した公明と数合わせに奔走する立憲…大丈夫か?

まさかの高市新総裁誕生で幕を閉じた自民党総裁選。公明党の連立離脱や野党の総理指名に向けた動きが活発化するなど、政治の世界もまさかの事態に揺れているようです。

私は前回記事で「基本的には高市さんは勝てない、勝てるとしたら党員票で圧倒的な数を集め、1回目議員投票でもそこそこの得票を得た場合」としていました。直前の麻生さんによる援護発言もあり、これが実現する形で高市さんが総裁の座を射止めます(他にも小泉陣営の牧島さんや平さんの軽率な言動、小泉さんご本人の決選投票前の謎のお礼だけ演説等、高市さんに票が流れる動きがいくつか重なったことも高市さんの勝因の1つとして考えられます)。

 

この後が大変です。連立を組んでいた公明党が政治と金の問題を蒸し返して早々に連立離脱、これによりただでさえ与党で過半数を取れていなかったものが更に票を減ずることとなったため、野党(特に立憲)が総理の座を狙えるかもしれないと色めき立っています。今回はこの歴史的な決断に踏み切った公明党と、基本的には最大勢力を持つ自民党が総理になるのが自然な民意の体現となるにも関わらず、政治を混迷・泥沼に引き込むために俄然気を吐いているとしか思えない立憲民主党について見ていきたいと思います。

 

カリスマを失った公明党の暴走と崩壊の足音

公明党幹部は「連立離脱の検討は今に始まった話ではない」としていますが、はたから見れば突然の変節にしか見えない今回の連立離脱。これには党内(支持母体)で圧倒的なカリスマを持つ存在の死が少なからず影響しているのではないか?と思います。

これまではなんだかんだ自民党に色々な問題があっても、池田さんが「しっかり政権の中枢で、時には自民党を叱責しながら正しい道、より良い方向に向かわせることが私たちの使命」として、ある意味政権のお目付け役を自認して活動してきました。また、自民党が拾いきれないような少数弱者の意見を政策に反映していくようなポジションをとり、特に生活困窮者を対象とする給付金政策などでは制度設計の段階から自民党に対して意見を出していく等していました。

しかし、学会員の高齢化、声を上げる社会的弱者の減少(ゼロにすることは出来ないし、ここまでやれば十分というところは無い部分ですが、それでも連立当時に比べれば社会と繋がれない、社会に包摂されていない社会的弱者は少なくなっていると思います。エレベーターなどのバリアフリーによって、以前よりは障がいのある人でも移動しやすい社会になっているし、病気を抱えた人も働き続けたり社会参画し続けやすい環境が少しずつ整備されています)等により、党の力は確実に弱まっています。その上、与党内でいくら声をあげても聞き入れられないとなれば、お目付け役を自負していた自身の立ち位置も揺らいできます。そうした状況下で圧倒的なカリスマを失い、大きな方向性を見失っているのでは?と思っています。

今回の連立離脱は、実質的に政権を担うことになる確率が高い自民党の保守傾向、右傾化の歯止めとなるストッパーを外すことになります。その是非は今どうこう議論しても仕方がなくて、将来の世代が歴史を振り返ったときに何らかの評価が下されるものなんだろうなと思います。

 

「数」欲しさに暴走する立憲

一方の立憲民主党。「十数年に一度の政権交代のチャンス」と意気込んでいますが、そもそも何のために政権交代を目指すのか?という大義を設定することを完全に置き去りにしています。

総理になったらゴールではなく、そこからがスタートであり、あらゆる課題に対応していかなければならない。そこまで見据えていたら、憲法への姿勢や国家観といったあらゆる政策のベース部分が異なる政党同士の連合(実態はほぼ野合に過ぎない)を基盤とした政権運営は早晩瓦解することは明白で、ひいてはそういう野合を束ねて国政を混乱させる動きをした自党への信頼感が低下する将来を予想することは難しくないはずです。

それこそ自民党公明党のように、党の規模に明らかな差があり、表面的には同等と言っていても誰が見ても序列が分かる状態ならいざ知らず、同じくらいの勢力を持つ党同士では常に内部で主導権争いが発生して物事が前に進みません。それでも前に進めるためには絶対的な大義が必要です。この国を良くするため、前に進めるために誰もが「それはそうだよね」と思える大義を立て、その旗のもとに多少の考え方の差があるとしても集まることで野党勢力を結集する。考え方の違う野党が結集するには基本的にはこの方法しかないにも関わらず、その大義が全く示せていない。唯一示しているのは「十数年に一度の政権交代のチャンス」だけ…これでは誰も集まりませんし、呼びかけられた側もこれに応じれば「ただ政権交代を希求するだけの党」という風に見えてしまうので、集まりたくても集まれない。

昭和の激動した政治史のように、例えば自民党内が2つに割れて、非主流派となった一方が野党と組んで政策の継続性を担保しながら政権を奪取した自社さ連立内閣の成立等とは似ても似つかない、ただのドタバタ劇です。立憲が本気で政権交代を目指すなら、それこそ長年「党内野党」と言われていた石破さんの勢力と結集し、自民党内のリベラル議員をごっそり巻き込む形で政策の継続性を担保しながら政権を担う立憲+非主流派自民勢力でどこまで戦えるかを分析する方が、国民民主党や維新の会との連携を模索するよりは可能性があるとすら思ってしまいます。

早速立憲から、自民党内を疑心暗鬼に誘い込むための工作のようなことが仕掛けられているようです。

https://news.yahoo.co.jp/articles/4c749bb9c60266b0cd60a4efc818857236d40a89

記事の通り、非主流派自民がいきなり立憲代表を首班指名となると反動が大きすぎますから、それを和らげる意味で公明党の斉藤さんを首班指名というのは立憲としては中々上手いこと考えたシナリオだなと思いました。ただ、現状では非主流派の末端議員しか名前が挙がっておらず、石破政権において中枢を担っていた人物の名前は出ていないことから、立憲の工作はあくまで立憲内で進行しているだけで、自民党内に切り込めている状況ではないし、自民党非主流派としてもそんなことをするつもりはないということなんだと思っています(そもそも立憲に自民党まで巻き込むような形でそこまで大きなことを仕掛けられるほどの人材がいない。全盛期の小沢さんならもしくはとも思いますが、さすがにもうその力は残っていないと推察します)。

 

こうやって政治の混迷状態が続くことは国にとって大きな損失です。一刻も早い政治の正常化が望まれます。

一応書いておくか…自民党総裁選

去年やったばかりなので「またか…」と言う気がする自民党総裁選。明日が投開票日なので一応展望について書いておこうかなと思います。

高市さんは今回も勝てない

勝てる芽が見えているならもっと早い段階で、党内で唯一残る派閥を持つ麻生さんが高市さんの支持を表明するはずです。

小泉さんには菅さんがついているし、林さんは旧岸田派出身だし、麻生さんの地元九州で麻生さんに対抗する力を持つ古賀さんも林さんを支持しているので、麻生さんが一番強い力を持つには高市さんが勝ってその裏で政権を支えるしかありませんでした。

でもその雰囲気が見えない。ということは麻生さんの中で「高市で勝てる」と確信できない情勢だということです。

そもそも、高市さんは決選投票に持ち込まれるとポジションが中道でない(右寄り?)と見られているため、幅広い支持をまとめられずに弱いという特徴があります。対抗となる小泉さん、林さんともにそこまでどちらかに寄った主張はしていないので、高市さんが勝つには1回目投票で勝負を決めるか、決選投票になるとしてもぶっちぎりの党員票を持ちつつ、議員票もそこそこ集めた1位となる必要があります。ところが今回も決選投票にもつれると見込まれており、高市さんの党員支持もぶっちぎりではなさそうということで、麻生さんは高市さん支持の選択肢は捨てていると思われます。

わかりやすいのは小泉or林×高市の決選投票

高市さんが何とか決選投票に2位で残って、小泉さんか林さんと決選投票ならわかりやすいシナリオで「決選投票に残った高市さんではない候補」の勝利となります。目下報道では小泉陣営が小泉×林の決選投票を避けるため、余裕があれば高市さんに1回目投票で票を回す可能性みたいなことも伝えられています。

ややこしい小泉×林の決選投票…ここで動く麻生さん

小泉陣営が避けたがっている小泉×林の決選投票。この場合でもメインシナリオは小泉さんの勝利だろうと思いますが、このシナリオになるとここまで態度を鮮明にしていない麻生さんが生き生きしてくることになります。麻生さんの思い一つでどちらにするか決めることができる。まさにキャスティングボートを麻生さんが握ることになります。

小泉陣営、特に菅さんとしては自身だけが小泉さんの後見となっている方が当然いいわけですから、麻生さんの影響力が入ってしまうこのシナリオでの勝ち筋はできれば避けたいところでしょう。

そこで1回目投票で高市さんへ票を回すとかいう皮算用をしているわけですが、そうした油断を林陣営がうまく突くことができれば、前回総裁選に引き続き、逆転で林さんに総裁の座が転がり込むということもありそうです。

逆転の林となった場合も、どんな勝ち方をするかが大事

林さんが勝てるシナリオは?

林さんが勝てるシナリオはあるでしょうか?

1回目投票では小泉×林の決選投票という状況を作り出すために麻生派から票をもらうことが期待できますが、決選投票となると前述した理由で基本的には麻生派の票は小泉さんに流れると思われます。

ここで大事になるのが茂木さんと小林さん、上川さんだと思っています。

茂木さんの協力

まず茂木さん。今回の総裁選に一番乗りで立候補表明して知名度向上に努めましたが、子ども食堂で自身のバースデーを祝うケーキを食べる演出が批判されたりしてイマイチ支持を広げることができませんでした。とはいえ、それなりに気脈を通じた議員はいるはずで、決選投票ではそこのグループが小泉、林のどちらに投票するかが重要になってきます。

林さんは報道番組の中で自分以外で誰が総裁にふさわしいか?とする質問で唯一茂木さんを指さしたことで話題になりました。茂木さんとしても悪い気はしていないでしょうし、それだけ林さんが茂木さんの能力を買っていることの証明でもあるため、茂木さんとしても林さんに投票して次期政権で主要ポストに就くというイメージもしやすいのではないでしょうか。

小林さんの「次の次」を見た計算

次に小林さん。こちらは前回総裁選への立候補と合わせて、党内的には小泉さんと並ぶ若手のホープとしてのポジションを確たるものとしつつあります。とはいえ、今回の総裁選でも決選投票に残ることは難しそうな情勢です。

ここで林さんと小泉さんのどちらにつくかという話ですが、基本的には小泉さんにつくことは難しいと思います。

自身よりさらに若い総裁が誕生してしまえば、更にその最後の一押しを自分がしたような形になってしまえば、小林さん自身が今後「期待の若手」というポジションで戦うことができなくなってしまいます。更に最後の最後で小泉陣営に参画したとしても、総裁選後の組閣でいいポジションがあてがわれる可能性は小さくなってしまいます。

それよりは、小泉×林の決選投票となれば、林さんに投票して「次の次」を目指して林内閣の中で重要ポジションでさらに研鑽を積む方がメリットが大きいと考えて、林さんへの投票となるのではないでしょうか?

決定打となる上川さんの翻意と「お公家集団」旧宏池会の流れを汲む岸田さんの戦略

最後に上川さん。前回総裁選で旧岸田派を割る形で林さんとともに総裁選に初挑戦していましたが、今回は立候補していません。彼女のもとでまとまっている旧岸田派がどう動くか?もポイントです。

目下のところ上川さんは小泉さんと行動を共にするとしていますが、実は旧岸田派との関係も切れているわけでないとなれば、決選投票では林さんのもとで旧岸田派勢力が結集するということもあり得るわけです。そしてそれこそが岸田さんの仕掛けた戦略だとすれば…

1回目投票の結果を見て小泉さんの流れが固いと見た麻生さんが、決選投票で小泉さんに投票し、林さんは小泉さんから翻意した上川さんを含む旧岸田派の全面支持を受けて当選すれば…林さんの後見は単独の岸田さんとなります。

 

菅さん、麻生さん、岸田さん…様々な思惑が錯綜する総裁選、結果はどうなるのでしょうか?

 

再びの自民党総裁選 その未来について

再び始まった自民党総裁

石破さんが自民党総裁の辞任を表明しました。これを受けて10月に総裁選がフルスペックで行われることとなりましたが、正直「またか…」という感じです。

対外的にはトランプ関税、国内的には物価高騰をはじめとする課題が山積していますが、石破さんが総理に就任していた約1年の間に「これは解決した」とはっきり言えるものは、残念ながら何もない印象です。

石破さんの本質は前の記事で書いたとおりなので割愛して、今回は今後行われる総裁選について、いくつか可能性を考えておきたいと思います。

未来その1 小泉さんは今回出馬を見送るかもしれない

まず、総裁の有力候補と目されている小泉さんですが、場合によっては「立候補しない」あるいは「立候補させない」選択肢を探っているのでは?と思っています。

そもそも今回の総裁選を勝ちきった後に広がる世界は、衆参ともに野党が過半数を握っている「少数与党」の総理という世界です。何をするにも他党との連携や調整が不可欠で、自民党がやりたい(あるいはやりたくない)政策を思ったとおりに実現するためのハードルが高い状態です。

仮に国民にとって好意的に捉えられる政策を実現したとしても、連携した野党が「自公連立政権では実現しなかった政策が実現したのは我が手柄」として吹聴するのは確実で、自民党や総理総裁に対する支持は広がりにくい情勢となります。更に山積する課題の後始末もつける必要があるため、実質的に新総理総裁ができることの幅が狭まっています。

体調不良で辞任した安倍さんから引き継ぐ形で、新型コロナへの対応に即応するため当事官房長官だった菅さんが総理に就任したように、現在の政策を引き継ぎつつ堅実にこなせる実務型の人物が待ち望まれる展開です。どちらかというと緊急登板的な場面で手堅い仕事をする林さんや、議員としての経験年数が長く、過去にトランプさんをして「タフネゴシエーター」と言わしめた茂木さんといった人物が最終的な支持を集める可能性があります。小泉さんはそうした人物の裏にうまく回って、今回は重要閣僚や党務の重要ポジションを経験し「次の次」まで温存しておくというシナリオもありそうです。

ただし、小泉さんと年齢が近い小林さんが立候補して党内支持を集めるような展開になりそうな場合は、自ら立候補という可能性も捨てきれないかなと思います。

未来その2 高市さんは立候補できないかもしれない

前回総裁選で石破さんと決選投票を争った高市さん。今回も当然立候補に前向きではありますが、立候補するためには20人の推薦人を集める必要があります。前回総裁選の推薦人20人のうち9人が、惨敗した衆議院選挙・参議院選挙のあおりを受けて落選したり、政界引退していたりしているため、立候補には「推薦人を都合できる後ろ盾」が必須です。基本的にはこの役目は党内で唯一の派閥を持つ麻生さんが担うと思われますが、先ほど小泉さんについて述べたような状況下のため、麻生さん側から「今回は見送って次の次を目指せ」と言われる可能性があります。となると実態はほぼ立候補「できない」訳ですが、立候補「しない」理由をうまく見つけて乗り切って次の次を狙うかもしれません。

 

政界の一寸先は闇。目下有力候補と思われる2人がまさかのどちらも不出馬というシナリオもあり得るかもしれません。

総裁に居座る石破さんの、気になる「言葉の軽さ」

自民党総裁に石破さんが居座り続け、政治の停滞が続いています。昨日開催された自民党両院議員総会でも「しかるべき時期に責任を判断」「国民が抱える課題解決に力を尽くす」を繰り返して、のらりくらりと乗り切っています。

一方で、そんな総理を支える党4役(幹事長、政調会長、総務会長、選対委員長)が辞任する意向を表明しました。

今回は辞任表明した森山幹事長に対して、石破さんが評した「余人をもって代えがたい方」について考えたいと思います。

余人をもって代えがたい方

この言葉は、受け取る側に対しては最大級の敬意をもって使われる表現だと思います。今回の場合で言うと森山さんに対しては非常に敬意ある表現となります。

一方、石破さんや森山さんが所属する自民党全体を俯瞰する視点で考えてみると、この「余人をもって代えがたい」ということは、「他にこの仕事ができる人はいない」と言っているのと同じことになります。

石破さんがもし今後も総裁を続けるつもりならば、辞任した森山さんに代わって党内の誰かに幹事長をお願いしないといけない状況です。なのに辞めていく森山さんを評して「余人をもって代えがたい」という表現を使ってしまったら、次に幹事長になる人はどう思うでしょうか?この言葉を素直に捉えれば「石破さんは本音では森山さんじゃないとできない仕事だと思っているんだろ?」と思われて、最初から微妙な空気感が漂います。さらに、周りから見ても森山さんの次に幹事長に就任する人は「余人をもって代えがたい森山さんよりは、格が落ちる人」という見え方になってしまいます。

この状態では、幹事長就任を打診してもそもそも受け入れてもらうのは容易ではないでしょう。

ここでもし石破さんが「そんなことはない」と否定すれば、「じゃあ、余人をもって代えがたいというのは嘘か?」ということになって、石破さん自身にその発言の意図を問われることになります。最近よくある「ブーメラン」というやつですが、個人的には石破さんはとかくこれが多い印象です。

自民党総裁選の序盤動向を読む(6)石破さんは「嫌われ続ける力」が足りない】

https://sioto310.hateblo.jp/entry/2024/08/28/080824

総裁選の時に懸念していた悪癖がここでも垣間見えた気がします。

石破さんの特徴

大局観なく短絡的にその場その場で「最適解」と思われる発言をしてしまう。森山さんに対する「余人をもって代えがたい」という発言は、その場だけを切り取れば最大級の敬意を払って一番正しいことを言っているように見えるのですが、全体を俯瞰してみると言動がチグハグして一貫性がない。

党内野党と言われている時代であればそれでも良かったのですが、いざ総裁となるとそういうわけにはいきません。「部分的に見ればそうなんだけど、全体で捉えるとそこまで言い切れないんだよな…」という経験、多かれ少なかれ皆さんにもあるのではないでしょうか?

多くの人が言い淀んでしまうようなこういう場面で、堂々とその場の「最適解」発言を繰り返して、政治家としてのキャリアを歩んできたのが石破さんという人なんだろうと思います。自分もそう思うけどなかなかはっきり言えない場面で、はっきりとモノを言う石破さんを見て「石破さんなら」という期待を持った人が多かったのも事実だと思います。

過去から未来へ続いていく組織や社会

でも、組織や社会ってそういう短絡的な最適解だけでは前に進まなくて、だからこそ難しい訳です。過去の歴史や経緯を踏まえて少しずつ考え方や発言を調整し、その積み重ねで関係を構築し、未来を形作っていく。

もし、石破さんがこれまで「最適解」発言を繰り返してきた理由が、こうした機微を察知する感覚が無いことに起因するもの(これを「空気を読まない」として評価する向きもありますが、「空気を読まない」のと「空気が読めない」のは決定的に違います)だとすれば、これは総理総裁としての資格に重大な欠落があると言わざるを得ないと思います。亡くなった安倍さんが「石破さんだけは総理にしてはならない」と言っていたのも、そういう趣旨だったのではないか?と思うと妙に納得してしまうのは、私だけでしょうか?

 

【書評/レビュー】十二国記、何から読み始めるか問題への処方箋(3)-このシリーズからの初読はおすすめしない『白銀の墟 玄の月』-

初めての十二国記シリーズとしておすすめしない『白銀の墟 玄の月』

十二国記の何から読めばその世界観を満喫できるか」を考えています。

十二国記の魅力について紹介するなかで、ひとつのシリーズのなかに様々な要素が含まれていると説明しました。どんなジャンルを読みたい人にでも十二国記はおすすめできると思うのですが、自分が読みたいと思っている内容と合致する巻じゃないと「こういうのを求めていた訳じゃない」ってなっちゃうんですよね。だから取り敢えず十二国記の「○○」を読んでおけば間違いない、みたいな作品はなくて、これから読もうと思っている人のニーズに合わせた巻を紹介することが重要になってきます。

今回は趣向を変えて、「このタイトルから読むのはおすすめしない」という一冊、『白銀の墟 玄の月』についてです。

白銀の墟 玄の月とは

2019年10月に全4巻からなる『白銀の墟 玄の月』の第1巻が発売されています。

2013年に発売された短編集『丕緒の鳥』から6年、長編として発売され、本作の導入部分としての役割も果たす『黄昏の岸 暁の天』が2001年発売なので、そこから考えると18年の歳月を超えて出版された最新作ということになります。

せっかく読むなら最新作を…と手に取りたくなる気持ちもよくわかりますが、本当に十二国記の世界を楽しむためには本作から読み始めるのはあまりお勧めできません。

白銀の墟 玄の月 ざっくりあらすじ

今作は十二国あるうちのひとつで、新王驍宗(ぎょうそう)が登極して間もない戴(たい)国が舞台です。

重臣の一人である阿選が謀反を起こし、驍宗は何処かに閉じ込められ、驍宗を王として選んだ泰麒は角を斬られた拍子に鳴蝕(めいしょく)という時空の歪みのようなものを起こしてしまい、十二国記の世界から蓬莱(日本)へ姿を消してしまいます。

蓬莱での泰麒の日々が『魔性の子』で描かれていたり、泰麒捜索のために各国が協力する様子が『黄昏の岸 暁の天』で描かれている訳ですが、本作ではそうした紆余曲折あってなんとか十二国記の世界に戻ってきた泰麒が自らの国に帰還し、少しずつ信頼できる仲間を作り、阿選が支配する偽朝に立ち向かいながら民を救おうとする物語が進行します。

その泰麒の奮闘と同時並行する形で、驍宗の家臣である将軍、李斎(りさい)を中心に、阿選が差し向ける追手から逃れつつ、仲間を集めて驍宗を救い出し、偽朝を倒そうとする人々の生き様も描かれていきます。

(このタイトルから読み始めるのはお勧めしませんが、結末は是非本編を読んで確かめていただけたらと思います)

白銀の墟 玄の月から読み始めてはいけない理由

その1 単純に登場人物が多すぎる

本記事を書くにあたり4巻を読み返してみましたが、ざっくり数えても50人以上は登場します。

泰麒や李斎を始めとする親驍宗派、阿選を筆頭に張運や士遜といった人物が名を連ねる偽朝派、親驍宗派が驍宗を捜索する過程で出会う去思や葆葉、朽桟といった市井の人物達…そうした人々のリアリティある背景や心情の変化も丁寧に描かれており、シリーズ初読でそのうちの誰がキーパーソンになりそうで、誰が物語の展開上は大きな影響を与えない、いわゆるモブ的なキャラクターなのかを見極めることは困難(そもそも一般的な「モブ」とされるような人物はほとんど居なくて、描かれているのにはそれなりの理由があると思われる)ですし、それならばと全員を把握/理解して読み進めるには登場人物の数があまりにも多すぎます。

その2 展開が重すぎてなかなか前に読み進められない

全4巻からなる本作ですが、正直そのうちの90%位は阿選側からの妨害や策略によって、泰麒や李斎の努力がわかりやすい形では実を結ばないという展開が続きます。十二国記シリーズを全巻読破していて、18年ぶりの新作を心待ちにしていた私でも途中本気で読むのを諦めようかと思うくらい苦しくなるというのが最初の感想でした。なにせ本当に泰麒や李斎が少しずつ、やっとの思いで積み上げてきたものが、阿選の妨害によっていとも簡単に、あっという間に蹴散らされてしまうような出来事の連続です。「何をしても驍宗は取り戻せないんじゃないか…」「民を救うことはできないのか…」そんな重苦しい絶望感を読者自身も感じずにはいられません。

もちろんそれは物語の結末への伏線であって、そんな絶望感を嫌と言うほど味わったからこそ、クライマックスの展開に大いに心を動かされる訳ですが、そこまで「耐え忍ぶ」時間があまりにも長いので、本作をシリーズの初読とすると「いつまでも長く暗いストーリーが続いて読み切れない」という、非常にもったいない感想になってしまいかねません。

その3 十二国記の世界観を掴めていない状態だと理解しきれない部分が多い

例えば、本作の舞台となる戴の麒麟十二国で唯一の「黒麒」です。通常の麒麟は金色の鬣を持ち、人間の形に変じている間はその髪が金色になることから、一般の民が見てもそれが麒麟だと認識するのは難しくなく、その姿を見るだけで「特別なもの」として奉られることになります。一方の黒麒麟は鬣が漆黒、『月の影 影の海(下)』では、延麒が『泰麒は黒だ。磨き上げた鋼の色をしてた』と表現し、続けて『歴史の中でも黒麒麟は滅多にない。赤麒麟というのも、白麒麟というのもいたらしいが、おれはお目にかかったことがない』と言っています(222ページ)。

人間の形に変じている間は一般の民と同じ黒髪であることから、一般人がその神々しさを普通の麒麟を見たときのように直感的に感じることは難しくなります。だからこそ本作の中で描かれる「転変(麒麟の姿に変身すること)できない泰麒」に対して、気安さを感じるものがいたり、その力を侮るものがいたりすることに繋がっていきます。一方でその霊力は普通の麒麟以上のものを持っているらしく、『黄昏の岸 暁の天』では、冬官長大司空である琅燦が泰麒について『(カッコ書き部分は私の補記)化物中の化物だよ、饕餮(とうてつ)は。それが憑いている子供(泰麒)を非力というんだったら、私たちなんか、みんな赤ん坊みたいなもんじゃない』『言いようによっちゃあ、饕餮以上の化物なんだよ・・・・・・あの麒麟さんは』と評しています(192ページ)。

ちなみに上記セリフの中で言及された、饕餮(とうてつ)を折伏して自らの使令(しもべのようなもの)に下す様子は『風の海 迷宮の岸』で描かれています(260ページ)。

このように、通常の麒麟と黒麒である泰麒は何が違うのか?そもそも麒麟とは何か?あらすじで少し言及した鳴蝕とは何か?十二国記における国と国の関わり方や麒麟が生まれるとされる蓬山とは?といったあたりも『風の海 迷宮の岸』において丁寧に描かれているのですが、そうした内容を背景知識として持っているうえで本作を読むのと、そうした背景知識がなく本作を読むので受け取る印象が違うということもあり得ます。

また、本作では随所に気候や環境についての言及がなされます。戴自体が十二国の中で北方にある国で、寒さが厳しいとされていることもあるのですが、本記事の冒頭でご紹介した短編集『丕緒の鳥』に収録されている『風信』を読んでいると「国が安定してくると気候が穏やかになったり、植物や動物の活動が活発になる」ということがわかります。これを意識しながら読むと、何気なく書かれている情景描写に込められた作者の思いのようなものを感じることができ、更に本作を楽しむことができるのではないかな?と思います。

十二国記の世界観を前提知識として持って読み進めることで得られる、極上のカタルシスと気づきの数々

ここまで触れてきた内容は、本作をより深く楽しむための準備運動のような位置付けとしてご紹介しました。

個人的には、十二国記シリーズ未読の状態で『白銀の墟 玄の月』を読んでみたいと思った方は、まずは前日譚として『黄昏の岸 暁の天』だけでも読了してから読み始めることをおすすめしたいと思います。

『黄昏の岸 暁の天』を読んだ上でもう少し戴について知っておきたいということであれば『風の海 迷宮の岸』を、泰麒の蓬莱における苦悩を知りたいということであれば『魔性の子』を、そもそも十二国記の世界について知りたい、ということであれば『丕緒の鳥』を読んだ後に本作を読むというのがおすすめかなと思います。

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【書評/レビュー】十二国記『華胥の幽夢』から金言を紹介~人を責めるだけなら誰でも出来る~

 

今回は、十二国記『華胥の幽夢』に収録され本のタイトルにもなっている『華胥』をご紹介します。

『華胥』のあらすじ

二十八歳の才気溢れる若き新王が玉座について二十余年。国のあるべき姿を夢で見せるという、宝玉でできた桃の枝「華胥華朶(かしょかだ)」を持つ才州国の王朝は、末期的な状況にありました。

十二国記では、王が天の意向に背くような施政を行うと、王を選んだ麒麟が病に倒れます。これを「失道」といい、麒麟の健康状態が王の施政の良し悪しを示すバロメーターのようなものとなっています。才の麒麟である采麟は永きにわたって病床にあり、公の場に出ることが出来ない状態となっています。

本作は、この朝に大司徒という役職で参画している朱夏という人物を中心に描き、彼女が病床に臥せる采麟の寝室を見舞うところから物語が展開していきます。

そもそも、この状況をもたらす原因となった王、砥尚(ししょう)は近郊にその人ありといわれる傑物でした。放埒を尽くした前王の施政を批判する市井の集団「高斗(こうと)」を組織して悪政と闘い、前王が斃れたのちには王不在の国の荒廃を防ぐために活動し、麒麟が王を選ぶ事ができる状態になったことを示す黄色い旗があがると、麒麟に会いに行くための旅(昇山)をして采麟に選ばれた人物です。

誰もが一目置いていた砥尚の新しい朝が二十余年で沈む…その理由が登場人物達の会話や心情描写から、そして華胥華朶の本当の効能に思いを巡らせる中から少しずつ明らかになっていきます。

本日の金言

物語の終盤、遂に砥尚は王の位から降りる決断をします。その時の遺言が今日の金言です。

「責難は成事にあらず」

少し漢文チックな表現なので現代風に要約すると「物事や人を責めることは、何か事を成したことにはならない」ということです。

目下のところ参議院選挙期間中で、候補者や政党が他者(特に総理や与党)を責める映像が報道やSNSで繰り返し表示されています。物語に登場する砥尚の叔母、慎思(しんし)はこう言います。

「そちらじゃない、こちらだと言ってあげて初めて、正すことになるのじゃない?」

「私は砥尚のやっていることが間違いだと知っているわけではありません。ただ、自分が違和感を覚えるだけなの。違和感がある以上、手を貸すことはできないけれども、こちらのほうが正しいのだと言ってあげることもできないのだから、砥尚を非難する資格などありませんし、そんなことをする気もありません。」

そしてさらにこう続きます。

「正道は自明のことに見えた。なぜなら、扶王(砥尚の前の王)が道を失っていたから、扶王の行いは即ち悪だと明らかだったからだ。(中略)扶王が行ったことなら、行わなければ良いのだ。ーそう短絡すれば確かに正道を見出すことは容易い。」

誤っていると明らかに分かるものを責めることは簡単です。しかし、その者に取って代わって自らが何かを成さなければならなくなった時、果たして全く誤ることなく事を成すことができるでしょうか?また、コメンテーターのように他者がしたことについて批評するだけになっていないでしょうか?こうすべきだと代案を示し、そちらに進むための動きを具体的に起こすことができているでしょうか?

自らの日頃の言動を思い返しながら読むと戒めとなる気づきが得られる、そんな一冊です。

あなたも「華胥華朶」を手にしているかもしれない

本の紹介はここまでですが、この記事を書くにあたり何度も「華胥」を読み返す中で気づいた新たな視点についても触れておきたいと思います。

現代は誰もが簡単にSNS等を通じて情報や意見を発信することができるようになりました。便利になっている一方、使い方を間違えると誤った情報や偏った意見に知らず知らずのうちに影響を受けるようになってしまいます。

わかりやすい例がポータルサイトです。あなたの過去の閲覧履歴をもとに、あなたの興味関心を引くであろうと判断した記事が掲載されています。これを盲目的に信じてしまうと「みんな私と同じように感じている」とか「みんな私と同じ反応をしている」と勘違いする。そしてあなたの行動が更に過激になると、それに応えるように表示内容も過激になっていって…。

まとめ

物語にでてきた華胥華朶は、「国のあるべき姿を見せる」ものではなく「自分が本当に望んでいるものを見せる」ものだと言うことが判明します。華胥華朶が見せる国が自らの理想とする国の形と寸分たがわぬこと(華胥華朶はその人が望んでいる世界を見せるものだから、そうなるのは当然)を知り、自らの施政に誤りがないと盲目的に信じた砥尚は「自分の判断が間違っているのではないか?」と考え直すことができなくなり、破滅への道を進むことになりました。

あなたが今手にしているスマートフォンも、もしかしたら「あるべき姿」を見せているのではなく「あなたが見たいと思う姿」を映しているだけかもしれません。情報の波に呑まれて「あるべき姿」を見失わないように気をつけないといけないですね。

 

移民受け入れについて考える

 

参院選が近づくにつれ、各政党の発信も活性化しています。

立憲民主党の野田さんが東京新聞のインタビューを受けた記事がありましたので、ここから色々考えてみたいと思います。

 

野田佳彦氏「外国人を受け入れる社会をつくらないと日本が成り立たない」 立憲民主党代表インタビュー

https://www.tokyo-np.co.jp/article/416114

移民を受け入れないといけないほどの労働人材不足は本当か?

インタビューの中で野田さんはこんな事を言っています。

『多文化共生は間違いなく日本のとるべき道。人口減少に歯止めがかからない中、介護、看護、障害者福祉などの分野は人材不足。建設や公共交通など社会を成り立たせている基本的な仕事も人がいない。外国人に働いてもらうことは避けられない。ちゃんと受け入れていく社会を作らないと、日本自体が成り立たない。』

(排外的な政党の台頭について)『世界的にそういう傾向にあるが(排外主義は)人類が悲しいことになる。分断を乗り越えて、みんなで支え合う社会を国内でも世界全体でもつくらないといけない。健全なナショナリズムは必要だが、偏りすぎれば国を滅ぼす。』

 

確かに今後日本は働ける人材が不足していくことが予想されます。そして野田さんが指摘する介護や看護等の業界は、人材不足がより進行している業界と言っていいと思います。

人材が足りないところに世界から職を求める人材を広く受け入れていく―さらっと聞き流すとそんなに違和感を感じないかもしれませんが、本当にそうなのでしょうか?日本にはもう働ける人材はいないのでしょうか?

完全失業者数は183万人

総務省統計局が発表している労働力調査によれば、2025年5月時点の完全失業率は2.5%で、人数にすると183万人います。

https://www.stat.go.jp/data/roudou/sokuhou/tsuki/index.html

同調査では主な産業別就業者数という表も公表されていて、それによれば野田さんが言及した介護や看護といった産業が含まれると思われる「医療,福祉」産業の就業者数は959万人です。不足しているとされる業界に就業している全就業者数の2割にあたる人材が、完全失業状態にあるということがわかります。

もちろん完全失業者の中には、様々な理由を抱えて就業できない状況になっている人や、そもそも働く意欲がない人もいると思います。それでもこの2割を実質的に見捨てて、新たな労働力を移民として受け入れていくことが、本当に優先して取り組む課題と言えるのでしょうか?

日本人失業者より外国人労働者の方がいい?

例えば、日本が仮に英語圏だったとしたら、移民の議論はまた違った展開があったかもしれません。文化が違っても、使う言語が同じであれば意思疎通は比較的容易に(とりあえず何を言ってるかはわかるという次元で)可能です。

しかし、日本は当然日本語が母国語として使われているため、実際の移民や外国人労働者は言語も文化も違う人材ということになります。いくら人材不足だからといって、介護や看護の会社が社内公用語を英語にしてまで外国人労働者を受け入れるようになるとは到底思えません。

また、介護や看護は意思疎通を誤ると人体への直接的な被害に結びつきやすい業界といえます。そういう現場において、都度発生する細かなオペレーションを言語が違う人間同士で行うことの難しさは少し考えればわかると思います。となると、実際に言語の違う外国人労働者がすぐに担えるのは、業務全体の中の限定されたオペレーション(例えば食事の準備、配膳、後片付けとか、移動の補助とか)となります。ここで外国人労働者がとても意欲的で熱心に日本語を学習理解してくれて、職場における様々なコトバ(介護なら介護の「用語」という意味の言葉ではなく、実際の業務の中でやり取りされるコミュニケーションとしてのコトバ(時には非言語的な「阿吽の呼吸」と言われるような動作を含むもの))を現場にいる中で理解していってくれれば、担える領域が広がっていく可能性もありますが、そこまでの人材が果たしてどれだけいるでしょうか?

今人材不足の業界は、そのままでは結局外国人労働者の取り合いにも負けてしまう

さらに、人材不足は介護看護業界に限ったものではなく、例えばコンビニ店員などのサービス業も同様です。そして、そちらは介護や看護に比べるとオペレーションが確立しており、複雑性も高くない場合が多く、仮にミスオペレーションがあったとしても、直接的な人体被害に結びつく可能性が低いとなれば、介護や看護人材として日本に入ってきた労働者が、別の業界の方がより安心して働けるという理由で流出してしまう可能性もあるわけです。

外国人労働者が溢れる未来で起こるコト

様々な業界に流出した外国人労働者と日本人が仕事を奪い合う。そうなると、生涯獲得賃金の低い国から来た労働者のほうが、日本人労働者より安い条件提示でも就業してくれる可能性が高くなる。雇い主の側は少しでも質のいい(能力が高い低いという意味ではなくて、日本語を理解できる水準の差という意味)労働者を確保しようとして「外国人労働者はこの金額で働くって言ってるけど?」と日本人労働者に外国人労働者並の賃金水準での就業を打診する。他に働き口が無い、あるいはある程度の期間その業界で働いているため、新たな業界で1から業務知識を身につけるより、今身につけている知識で引き続き働きたいと思う日本人労働者は渋々その打診を受ける―雇い主だけがハッピーになる未来が見えてきませんか?

まとめ

多文化共生は当たり前に大切にすべき価値観だと思っています。ただし、それと移民政策を一緒くたにまとめて「移民受け入れに反対する人=排外的」とレッテル貼りするのは早計だと思います。今の形での移民受け入れは外国人労働者自体も幸せにならない。人材不足の解決策は他にあるのではないか?ということを提起して、今回はここまでとします。