最近「静かな退職」という考え方が広がっているそうです。これは会社に属しながら最低限の働きをして過ごす状態のことで、アメリカのティックトッカーが広めた言葉と言われています。
今風の言葉にアップデートされてはいますが、個人的には日本においては最近になって発生した人たちではないような気がします。1990年代中頃には「17時から男」なんてフレーズのコマーシャルがあったりして、当時は現在のようにラベリングされて顕在化していないものの、実感としてはどの職場にもそういう人いるなっていう認識はあったのではないかと思います。
それが近頃再び話題になるのは何故か。こういう人達が会社、あるいは社会にとって見過ごせない状況になっているからだと思います。
今までは「静かな退職」的な働き方の人がいても、放っておいてそれ以外のメンバーで成果をあげることができました。成果を得たメンバーは給与が上がったり、称賛を受けたりすることで、自分が仕事に熱心に取り組んだことは正しかったと自分自身を納得させることができました。
ところが、特に日本は失われた30年という言葉に表されるように、会社・社会の低成長状態が続きました。どんなに熱心に仕事に取り組んでも思ったほどの成果があがらない、または社会の成熟により人々のニーズが既に満たされている中で、余計な機能やサービスを産み出すような仕事に感じられる状況だと、そもそも何のためにこの仕事をしているんだろう?と仕事に対して自分自身が疑問を持ってしまう。こうなると仕事に熱心に取り組む自分を納得させることが難しくなってきます。そんなときに隣の席を見ると、最低限の働きをして過ごしている人がいる。どうやら休日は充実した生活をしているようだ。こちらは平日の疲れをとるので精一杯なのに...こうなったら元々意欲の高かった人でも「静かな退職」側に気持ちが傾いていくのも無理ない気がしてきます。
一人、また一人と「静かな退職」をする人が増えていく。段々と会社の活力が奪われていきます。本当に退職していれば、別の人を採用して組織の中に新しい風を持ち込むこともできますが、退職せずに留まられてしまうので、新たな人材を追加することはできず、会社としては退職以上に深刻な問題です。
こうした会社が増えていくと、やがて社会全体の活力が低い状態である「低活力社会」が到来します。人間でいうフレイルのような状態になり、少しずつ衰退していくイメージです。具体的には消費が少ない(高額なものを持ちたいという意欲がない)、子供を産まない(産もうと思わない)、その日その日をなんとなく過ごせていればよい、ただしその慎ましやかな願いも昨今の物価高騰等の影響を受けて少しずつ苦しくなっていく...。生活維持のため一時的な補助金の交付を国に求め、政治家も国民から支持を受けるために補助金を交付する(最近はポイント還元という方法で簡単に補助金が出せるようになってきました)。それでも元々の低活力には何のアプローチもしていないので事態は好転せず、補助金を求める声は段々と大きくなり恒常的なものになっていく...。
ここで、「高額なものを持ちたいと思っても金がない」とか「子供を産みたいと思っても金がない」といった反論があるかもしれません。では、それに対してより多くの金を稼ぐための具体的なアクションをしているか?と聞くとほとんどの場合出来ていないと思います。キャリアアップのための学習や資格取得、転職や起業といったことです。「そんなことする時間はない。いまを生活するので精一杯だ」...それだけ精一杯に取り組んでいるのに充分な金が得られないなら、現在の仕事はそこそこで済ませ、キャリアアップのための時間を捻出して取り組んだらどうですか?と聞くと「そこまでしなくても現状暮らせているし、キャリアアップのイメージも描けない」...こうして現状維持か、静かな退職に到るケースが多いのではないでしょうか?
この悪循環を改善するためには、社会のダイナミックな、そして当たり前の発想転換が求められます。それは「必要のないこと(ニーズの少ないことやもの)はやらない」ということです。
文字にするとすごく当たり前のことですが、これが本当に難しい。次回以降で今やっているけど必要性が乏しいのではないか?と思うことについて、いくつか考えてみたいと思います。